にらめっこ/余白
「にらめっこ」
眠りについた商店街を起こしてしまわないように。
傘を寄せて、歌う代わりに煙を吐きながら歩いていた。
足音は、雨音に消されて。
傘の内側で、吐いた煙が雨宿りをしている。
この町が濡れたときの匂いを、僕は知らない。
爪先の果てで待つ人の、本当の名前も知らない。
久しく見ていないその顔を、明瞭に覚えてもいない。
どんな顔で、なにを話すのかも、分からない。
けれど、商店街が寝ぼけ眼で背伸びをする迄に、僕達がなにをするのかは。
なんとなく分かっていた。
呼び鈴に一番近いコンビニで酒を買った。
臍の辺りから湧いてくる背徳感を誤魔化すように、勢いでそれを飲み干す。
呆けた面を持ち上げる音は雨音に紛れた。
いつ見ても、開いたままの金属の口。
幾度となくそれと唇を交えてきたが、そのときの接吻はいつもにまして不味かった。
千鳥足で歩を進めて、冷えた指先で呼び鈴を押した。
不安定に立てかけていた傘は、翌朝もその姿勢を保っていた。
数時間前に歩いた道を、なぞり返すように歩いているだけなのに。
今自分の居る土地が、昨夜とは全く違う場所に思えた。
乾ききらない地面を、ときたま傘でつつきながら歩いた。
噛まれた首元に、慣れない痛みを覚えながら。
呼び鈴から一番遠いコンビニで酒を買った。
「余白」
一枚の写真を手に入れた。
という方の写真。
似たようなことを。
数年前の日記で、小説を例に長々と書き連ねたことがある。
世の中には、色々な文化、芸術作品があるが。
僕は、受け手に想像の余白がある作品が好きだ。
これは、文学、音楽に多い気がする。
というのも、視点の情報量が極端に少ないからだ。
言葉や、五線譜を頼りに。受け手が各々の視点で情景を想像していく。
今、一番近くにあった小説を借りて説明すれば。
「日曜日のパリが私は大好きだった。
母に連れられて、どのくらい歩き回ったことだろう。毎週日曜日になると朝食を済ませた私と母は、エッフェル塔の近くのアパートを出て、ただひたすらにパリの街を歩いたものだった。」 (ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶/大崎善生)
この文章から、どんな情景を想像するか。
「私」の一人称視点で母の方を見ているのか、三人称視点で「私と母」を見ているのか、それともただ何気ないパリの街並みを浮かべるのか。
そもそも、パリの街並みってなんなのか。
受け手の想像の果ての世界は、誰一人として全く同じになることはない。
作り手が浮かべる世界を、同じ視点で共有することもできない。
自分が浮かべる世界を、誰かに共有することもできない。
そのもどかしさが、僕は大好きだ。
比べて、写真や映像は視点の情報量が多い。
撮影者が切り取った視点を、ダイレクトに受け取ることになる。
だから、想像する余白が少ない。
勿論、それらにはそれら独自の美しさや、好きなところがあるのだけれど。
受け取ったあとの想像が好きな僕にとって、その点での楽しみを感じれる作品は少なかった。
こいそさんの写真には、その余白がある。
分かりやすく伝えるなら、iPhoneのLIVE写真のように。
切り取られた静止画のその前後が浮かぶ。
会場が浮かぶ。空気感が浮かぶ。
そこまで浮かべば、どんな視点でもその情景を見れる。
僕は、撮影されたその場に居なかったので。
A3の外は。何処まで行っても、僕の想像でしかないのだけれど。
A3の外にも行ける、そんな写真。
酔っぱらいの素人が、拙い言葉でなにを言っているんだという話なのだけれど。
僕の日記で、小言なので。許せ。
簡潔に言えば「めっちゃ好き」です。
こんばんは。
以前。
知り合って間もない女子に、そんなような価値観の話をしたことがあった。
変わらずに酔っぱらっていた僕は、彼女の返答を予測せずにただ口を動かしていた。
「ごめんね、よく分からないかな」と、申し訳なさそうに彼女は言った。
その晩、同じ枕で眠った二人だったが。
きっと、違う夢を見ていた。